“ご近所トラブル”と“社会の不寛容”
“隣人トラブル”や“ご近所トラブル”は、近代社会における問題のひとつ。特に日本では土地事情によって集合住宅が多く、価値観の異なる多様な者同士が隣接して生活している空間という側面があるため、様々な感覚に対する齟齬も生じやすい。例えば「音」や「匂い」などの五感に対する容認の度合いは、人それぞれ、千差万別だ。「これは大丈夫」という自身の感覚は、他人にとって「これはひどい」という感覚になる可能性を秘めている。常識と非常識との境界線というのは、法律で明文化されているとは限らないので、実は曖昧なのだ。ニュース番組やワイドショーで度々取り上げられる“騒音おばさん”の類の“隣人トラブル”事例が、全国で報告されながらも撲滅されることがないのはそのためだろう。
第32回東京国際映画祭の日本映画スプラッシュ部門に出品された天野千尋監督の『ミセス・ノイズィ』は、“騒音おばさん”をモチーフにすることで、“隣人トラブル”や“ご近所トラブル”のメカニズムを解体しようと試みた作品。新人賞で注目を浴びながらもスランプに陥っている小説家が、転居先の集合住宅で隣人とのトラブルに見舞われる姿を描いている。特筆すべきは、小説家と隣人、双方の視点で物語が構成されている点。常識と非常識との境界線が曖昧であるからこそ、視点が変わると見え方も変わる。そんなアプローチで“隣人トラブル”を描いた結果、この映画は「なぜ問題が起こるのか?」という事象の原因を追求するだけにとどまらず、SNS上の炎上、メディアによる報道のあり方など、現代の社会問題へ言及するまでに至っているのだ。そこに横たわるのは、“社会の不寛容”だ。
“隣人トラブルのようなもの”は古くから映画で描かれてきたモチーフ
映画では、“隣人トラブルのようなもの”が描かれてきたという経緯がある。例えば、ジョン・ベルーシの遺作となった『ネイバーズ』(1981年)では、隣人の過激な行動によって迷惑を被り、隣人同士が対立する姿が描かれていた。また、ザック・エフロン主演の『ネイバーズ』(2014年)でも、大学生たちが毎晩大騒ぎをするという“騒音”に悩まされる隣人夫婦の姿が描かれている(二つの作品に関連性はない)。さらにハリウッド映画以外でも、レバノンを舞台にした『判決、ふたつの希望』(2017年)やアイスランドを舞台にした『隣の影』(2017年)などで隣人との軋轢が描かれていたが、これらの作品では“社会の不寛容”というテーマを暗喩することで、民族や移民の問題にまで踏み込んでいるのが特徴だった。
そもそも映画が誕生した1895年。リュミエール兄弟の『水をかけられた散水夫』(1895年)では、少年が水撒きのホースを踏んで水が出なくなるという悪戯を仕掛け、庭師に懲らしめられるという姿が描かれていた。ここで描かれているのは、もちろん“隣人トラブル”ではないのだが、“迷惑行為”というモチーフは、映画の誕生とともに描かれてきたものなのである。つまり、“迷惑行為”である“隣人トラブル”なるものは、映画らしい題材のひとつだと言えるのではないだろうか。国を越えてモチーフとなる由縁は、国際的にも社会全体が不寛容な傾向にあることを裏付けるのである。
https://www.youtube.com/watch?v=RFntyUlnXM8
『ミセス・ノイズィ』では、小説家のスランプと隣人の“騒音”の関連性を検証して見せているのが興味深い点。スランプの原因は己の才能のせいなのか、それとも環境のせいなのか? と問いかけながら、蒲団を叩く<音>=<ノイズ>=<雑音>=<執筆の集中を妨げるもの>と連想させることによって、主人公・真紀(篠原ゆき子)の中で隣人への憎悪が肥大化してゆくのである。一方で、執筆活動に集中するあまり、娘(新津ちせ)に構っていられないという状況も描かれている。夫(長尾卓磨)をニュートラルな立場に配置しつつ、 ともすれば娘への育児放棄と解釈されかねない主人公の姿を描くことで、問題は隣人の“騒音”だけにあるのではないのではないか? と、徐々に仄めかしてゆく演出が実に巧妙なのだ。それは、物語が“騒音おばさん”側の事情を「別の視点」として描くことで、観客の“常識”をも揺らがせてゆくからである。
我々は“隣人トラブル”とどのように向き合い、己の身を守るべきなのか
『ミセス・ノイズィ』で重要なのは、“隣人トラブル”を起点に事件が意外な展開を迎える点にある。その要因となるのがソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の存在。スマートフォンによって写真や動画の撮影が容易となり、その素材をSNSで共有・拡散することで、隣人同士の諍いでしかなかった事案が、歪んだ社会問題として肥大化してゆくことになるからである。情報過多とも言える現代社会の中で、我々は目の前に提示された表層的な情報の印象だけで物事を判断しがちだという危うさを抱えている。正義の鉄槌、その使い道を誤り、誹謗中傷に繋がっているという事案も少なくないとされる中で、我々は“隣人トラブル”と、どのように向き合い、どのように己の身を守るべきなのか。
映画の序盤、スランプの言い訳をする主人公に対して「心の余裕のなさでは?」と編集者に指摘される場面がある。前述の『ネイバーズ』や『判決、ふたつの希望』などでも、己の主張を優先しようとすることがトラブルの原因であることを指摘していた。果たして我々は、常日頃から「相手の言葉に声に耳を傾ける」という行為がなされているだろうか。常識と非常識、寛容と不寛容、そして正義と悪。『ミセス・ノイズィ』は、我々がそれらの狭間で生きているグレーな存在であることを、今一度戒めるのである。
文:松崎健夫
『ミセス・ノイズィ』は2020年12月4日(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほか公開
『ミセス・ノイズィ』
小説家であり、母親でもある主人公・吉岡真紀(36)。スランプ中の彼女の前に、ある日突如立ちはだかったのは、隣の住人・若田美和子(52)による、けたたましい騒音、そして嫌がらせの数々だった。それは日に日に激しくなり、真紀のストレスは溜まる一方。執筆は一向に進まず、おかげで家族ともギクシャクし、心の平穏を奪われていく。
そんな日々が続く中、真紀は、美和子を小説のネタに書くことで反撃に出るが、それが予想外の事態を巻き起こしてしまう。2人のケンカは日増しに激しくなり、家族や世間を巻き込んでいき、やがてマスコミを騒がす大事件へと発展……。果たして、この不条理なバトルに決着はつくのか――!?
制作年: | 2019 |
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監督: | |
出演: |
2020年12月4日(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほか公開