「ストックホルム症候群」を生んだ実際の事件
強盗や誘拐の被害にあって人質となった女性が、極限状態の中で次第に犯人と心を通わせ始め、ついには恋愛感情を持ってしまう。――そんな現象を「ストックホルム症候群」と呼ぶことは、少なくとも映画好きな人であれば知らない人はいないだろう。そうしたシチュエーションは過去に数多くの作品として描かれてきたからだ。だが、そもそもその言葉が生まれるきっかけとなった事件のことはあまり知られていない。映画『ストックホルム・ケース』は、その知られざる実話を描いた傑作だ。
絶好調イーサン・ホークならではの個性が主人公の人間味に生命を吹き込んだ!
子役の頃からの出演作品をずっと見てきたイーサン・ホークだが、リチャード・リンクレイター監督との『ビフォア~』シリーズ三部作(1995年、2004年、2013年)以降、二度目のオスカー助演男優賞候補となった『6才のボクが、大人になるまで。』(2014年)、チェット・ベイカー役を熱演した『ブルーに生まれついて』(2015年)、粗野な男が次第に思いやりを身につけていく『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』(2016年)、環境破壊への抵抗こそが神の求める答えと思い詰める牧師を演じた『魂のゆくえ』(2017年)、初のフランス映画への出演となった『真実』(2019年)と、このところ絶好調、最も目の離せない俳優となった感がある。
イーサン・ホークの魅力の本質は、何かヘマをやらかしそうで見ていてハラハラさせられる点にあると筆者は思ってきたが、その意味で近年もっとも彼らしい役柄に思えたのが、ややお人好しの銀行強盗犯を演じたこの『ストックホルム・ケース』だ。
1973年に起きた実話に基づいたこの物語で、彼はラースという銀行強盗犯を演じているが、そのモデルとなった実際の犯人はジャン=エリック・オルソンという男で、残された逮捕時の写真を見る限りは、イーサン・ホークの持つ、本当は人が好い男という個性はあまり感じさせない。したがって、人質となった銀行員で主婦であるビアンカ(ノオミ・ラパス)が次第に惹かれていく犯人の個性というものは、かなりの程度、イーサン・ホークをラースにキャスティングしたことから生まれた魅力なのではないかと思える。
冒頭、タクシーに乗って登場するラースは、長髪に口髭にサングラス、黒の革ジャンにカウボーイハットという派手ないでたちゆえに、運転手から「ミュージシャンだろ?」と誤解される。そんな派手な格好で銀行強盗すること自体ちょっと間抜けな感じがするが、この格好はどう見ても『イージー★ライダー』(1969年)のデニス・ホッパーとピーター・フォンダの二人を足して2で割ったファッション。
1973年といえば、まだまだ世界中で『イージー★ライダー』旋風が吹き荒れていた頃。その意味ではラースの役作りは、世の中の流行にモロに乗っかってしまう軽薄な感じを良く表している。逃走用に「スティーヴ・マックイーンが『ブリット』で乗っていた車を用意しろ!」と要求する辺りも、アメリカへの憧れとともに間抜けな感じがよく出ていた。
人質という極限状態に置かれたヒロインが、犯人の男に共感する展開はある意味で映画の王道!
人質となった女性が、極限状態の中で犯人と次第に心を通わせ始め、疑似的な恋愛感情まで生じてしまうという現象が、なぜ「ストックホルム症候群」と呼ばれることになったのか? これについては、犯人ラースと図らずも何日も一緒に過ごすうちに次第に心からの共感を持ち、逃亡が成功するように進んで協力さえしようとするビアンカの姿を通じてたっぷりと描かれるが、こうした犯人の男性と人質の女性との間の不思議な絆を描いた映画というのは、実は「ストックホルム症候群」という言葉が生まれる前から作られてきた。
最も古い例だと、名作『キング・コング』(1933年)が実はこのパターン。コングにさらわれた美女フェイ・レイが、最後には自分を護りとおして死んでいったコングの心を誰よりも理解するという物語は、今日に至るまでその後何度もリメイクされている。
1975年に作られた『風とライオン』では、モロッコのリーフ族の首領を演じたショーン・コネリーが、現地に子供たちと住んでいたアメリカ人女性キャンディス・バーゲンを誘拐するが、もちろん彼女がコネリーの魅力に心惹かれるのは当然の成り行き。ストックホルムの事件が起きた直後のこの時期は、ロバート・レッドフォードの『コンドル』(1975年)、シャーロット・ランプリングの『愛の嵐』(1973年)、アル・パチーノの『狼たちの午後』(1975年)と、同様のシチュエーションの映画が数多く作られた。
1980年代になると、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの孫娘が誘拐され、その後誘拐した一味の仲間になってしまったという1974年に起きたこれまた実話を題材とした『テロリズムの夜/パティ・ハースト誘拐事件』(1988年)や、女性アーチストのジョディ・フォスターがマフィアの殺人を目撃したことで殺し屋のデニス・ホッパーに命を狙われるものの、奇妙な疑似恋愛関係になった二人が逃避行を繰り広げる『ハートに火をつけて』(1989年/後に『バックトラック』のタイトルでオリジナル編集版公開)が作られている。
その後も、たとえば『バッファロー’66』(1998年)のクリスティーナ・リッチ、『007』シリーズ第19作『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ』(1999年)でソフィー・マルソーが演じたボンドガールが、典型的な「ストックホルム症候群」の女性として描かれていた。
凶悪犯を気取ってはいても本当はお人好し! イーサン・ホークの個性が光る主人公像
こうした、ある意味で映画の王道ともいえるシチュエーションは近年でもよく見かけるが、それは最悪な形で出会った男女が逆にそれゆえに惹かれあってしまうというドラマチックな展開が、そもそも極めて映画的だからなのではなかろうか。
そんな中で作られた、今回の『ストックホルム・ケース』は、たとえばショーン・コネリーのような、「そりゃ、どんな女だってコネリーに誘拐されたら恋をしちゃうでしょ」という“圧倒的な男の魅力”というものではない。どこか頼りなさげで、ヘマをやらかしそうで、凶悪犯を気取ってはいても本当はお人好しであることが透けて見えてしまう、イーサン・ホークならではの個性を前面に出した主人公というパターンで、極限状態に置かれたヒロインと犯人との心のふれあいを見事に描いて見せた。
ラストに人質を連れての犯人たちの脱出が成功するかどうかは、ぜひ映画を見て確認してもらいたいが、ラース役のモデルとなった実際の犯人ジャン=エリック・オルソンは現在はタイに住み、タイ人の奥さんと幸せな結婚生活を送っているのだという。
文:谷川建司
『ストックホルム・ケース』は2020年11月6日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷、シネマート新宿、UPLINK吉祥寺ほか公開
『ストックホルム・ケース』
何をやっても上手くいかない悪党のラースは自由の国アメリカに逃れるために、アメリカ人風を装いストックホルムの銀行強盗を実行する。彼は幼い娘を持つビアンカを含む3人を人質に取り、犯罪仲間であるグンナーを刑務所から釈放させることに成功。続いてラースは人質と交換に金と逃走車を要求し、グンナーと共に逃走する計画だったが、警察は彼らを銀行の中に封じ込める作戦に打って出る。現場には報道陣が押し寄せ、事件は長期戦となっていく。すると犯人と人質の関係だったラースとビアンカたちの間に、不思議な共感が芽生え始める……。
制作年: | 2018 |
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監督: | |
出演: |
2020年11月6日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷、シネマート新宿、UPLINK吉祥寺ほか公開