1940年代、少しずつ戦争の足音が日本に近づいてきた疑心暗鬼渦巻く狂乱の時代を舞台に、ある一組の夫婦の正義と愛の物語を黒沢清監督が映画化。ロケ地、衣裳、美術、台詞回しのすべてにこだわったという本作は、第77回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞したことで話題になった。そんな本作について、CS映画専門チャンネル ムービープラスの新作映画情報番組「映画館へ行こう」MC・小林麗菜が黒沢監督にインタビューを敢行した。
「偶然の幸運が訪れないと選ばれない。まだ少し運が残っていたのかなと思いました(笑)」
小林:『スパイの妻』を拝見させていただきました。黒沢監督の描く歴史ミステリーにすごくぞわぞわして、観ているこちらも心拍数がどんどん上がっていくような緊迫感があり、非常に面白かったです。セットや衣装、キャストの口調など、全てが素晴らしくて本当に感動しました。そして、先日のヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞受賞おめでとうございます!
黒沢:ありがとうございます。
小林:受賞されたときは、どう思われましたか?
黒沢:一言、ラッキーだったと思います。海外の映画祭はこれまでに何度か経験していますけど、大きな映画祭のコンペティションは相当いろんなハードルを越えないと選ばれないので、選ばれた時点で本当によくやったなと思いましたし、逆にこれで運は使い果たしたなと思ったんです。選ばれた作品のクオリティって拮抗しているので、その時の審査員の方の好みもあるし、バランスというか、いろんな要素のなかで何かが目立つとか、そういう偶然の幸運が訪れないと、とても賞などとれないと思ってましたから、まだ少し運が残っていたんでしょうね(笑)。
小林:過去の作品では、警察署ではないところを警察署に見立てたり、独特な撮影をされてきましたが、今回は1940年代のお話ということで、セットや衣装がその時代に見えるようこだわった点などありますか?
黒沢:もちろん、ありました。ただ、この時代のリアリティっていうのをどのように決定していくかっていうのは、なかなか難しいものがあるんですね。例えば当時の資料はいろいろあるわけですけど、だいたい白黒写真なんですよ。色は想像するしかない。
黒沢:あと、当時の何かを再現したとして、当時作ったものはその時は新しいわけです。新品のピカピカであることが本当はリアルなんですが、ピカピカの新品でいいの? っていう。フィクションのドラマのリアリティとして新品のピカピカでいいのかというと、ちょっと古くしたほうがフィクションのリアリティに見えてくるとか。当時のリアルを追求したとはいえ、そのリアルの基準はこっちで細かく全部設定するという作業ですね。大変でしたが、面白かったです。
黒沢:逆に現代の東京っていうと、撮れば現代の東京なわけですよ。こっちが何もしなくても、無責任に現代の東京のリアリティが映し出されるわけですけど、それとは全然違う作業でしたね。いまどきですとCGを使うとか、全部を作り物のセットにするとか、お金をかければできるんですけど、そんな予算がなかったもんですから、実際にあるところを利用して、そこを細かく美術や小道具が修正していくという作業でした。
黒沢:ただ、衣装は贅沢でしたね。衣装は当時のものは、もうないわけです。あったとしても、もうボロボロなので。探しても見つからないので全部作ったんです。主要な俳優たちのぶんですけど、全部その人のサイズに合わせて、すべてこちらの好みに合わせて。衣装に関してはこれまでにない贅沢をさせていただきました。
原作もなく、実在の人物もいない、完全オリジナルストーリーの発案者は?
小林:この作品から反戦や今の日本社会への警鐘のようなメッセージが読み取れたのですが、それは最初から込められていたのでしょうか?
黒沢:いや、そういうメッセージを発信するためにこの映画を作ったわけではありません。ただ、社会のある種のルールみたいなものがあって、そのなかでひとりひとりの人間が、どうやってそのルールと付き合っていくのか、そこから離れていくのか、ルールに取り込まれるのか、そのなかで一人の人間の自由はどうなるのか、みたいな。どの時代であってもそれは普遍的なテーマだと思うんですが、そういうものはこの時代の人間を描くと、現代以上にすごく鮮明になりました。
黒沢:社会・ルールがあって自分はどうするかということが一つの映像として、くっきりわかるように描けるので、この時代がやりやすいと言ったら変ですけど、それが鮮明になる時代だったなと実感しています。
小林:いまの保守的な日本で、あの国家機密を取り上げたのがすごいなと思いました。また、世界がそれを評価したのもさらに素晴らしいことだなと感じたのですが、監督はなぜこのテーマを選んだのでしょうか?
黒沢:実は、ぼくが選んだんじゃないんですよ。ぼくが教えている東京藝大の大学院で学生だった濱口竜介と野原位という、この二人が脚本の元になるものを作ったんです。だから完全なオリジナルストーリーで、よくこんなものを思いついたなと驚きました。
黒沢:当時の歴史を踏まえてはいますけど、この時代のこういうドラマを原作もなく、実在の人物もいない全くのフィクションでって、なかなかないですよね。二人が「こんなのどうでしょう?」って持って来て、「こういうのを待っていた。とても面白い。でもどうやって撮るの?」っていうのが最初の感想でしたけど(笑)。彼らがこの物語とテーマとを見つけてきてくれたんです。
「ポン・ジュノ監督とは同志という意識がありましたが、いまや遥か彼方に行ってしまった(笑)」
小林:ポン・ジュノ監督やアリ・アスター監督などがインタビューで黒沢監督のお名前や作品をよく挙げられていますが、監督はお二人のことをどう思われていますか?
黒沢:いやいや、恐縮です。ポン・ジュノは個人的にもよく知ってる……って言うと変ですけど、何度もお会いしてますし、ついこの間までは、世代は違いますけど似たようなことで頑張ってる同志というか、仲間だなって意識がありました。でも、いまや完全に突き抜けてしまったので、遥か彼方にいってしまった人っていう風になっちゃいましたね(笑)。
アリ・アスターさんは、新作までは観れていないのですけど、評判になった『ヘレディタリー/継承』(2018年)は観ました。ただ、お会いしたことがないので、ぼくのことを知っていらっしゃるということを知りませんでした。
小林:アリ・アスター監督の作品は黒沢魂を感じる気がします。
黒沢:そうなんですかね。『ヘレディタリー』はとても面白くて、「大胆なことやるなぁ」と、とても楽しく観させていただきました。ぼくなんかとは全然違う才能なんだろうと思ってました。
小林:かなり影響を与えてらっしゃると思います。ちなみにポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』(2019年)はご覧になりましたか?
黒沢:もちろん! 大変面白いんですけど、正直いつものポン・ジュノだよねっていうのがぼくの感想で。ポン・ジュノファンとしてはもう大好きで、いたるところにポン・ジュノタッチが見える。「大丈夫?」っていうくらい大胆なことに挑む、そのポン・ジュノタッチが世間でこれだけ評価されて、「いまごろポン・ジュノを発見したのみんな? 前から知ってるよ!」っていうのが正直なところです。いまごろ世間は知ったのかよっていうね。グレードアップしてますけど、ポン・ジュノが何か今までと全然違う特殊なことをやったんじゃなくて、今までのポン・ジュノのままであることがとても嬉しかったんです。「いまごろ驚いてるの?」って(笑)。
「古い日本映画に出てくる人たちの口調、それをレクチャーする必要はまったくなかった」
小林:作品を見ていて感じたんですが、蒼井優さんの口調と言いますか、セリフの言い回しが小津映画のような感じで、すごく上品で素敵だなと思ったんですが、監督からは指示やアドバイスがあったんでしょうか?
黒沢:特に何の指示もしていません。脚本のセリフがそのように書かれてありましたし、蒼井さんに限らないんですけど、高橋(一生)さんも東出(昌大)さんも、主要の三人の方には脚本を読んでいただいて。その後お会いした時に、開口一番、現代の人が普通に喋るセリフとはまったく違うんですが、このセリフでどんなものを狙っているか、お分かりになりますかって聞くと、三人とも「よくわかります」と。「よくわかるし、一度こういうことをやってみたかったんで、多分できると思います」って三人ともおっしゃったので、それ以上は説明しませんでした。
おっしゃる通り、小津に限らないんですけど、1940~1950年代前半ぐらいの、ある種の古い日本映画に出てくる人たちの口調ですね。どの監督のどの俳優みたいにとは決めていないんですが、あの頃の一つのスタンダードを再現しようとしたんです。そのことを俳優の人たちも基礎教養としてわかってらっしゃったので。これが「全然わからないんですけど、どうしましょう?」となっていたら、まず小津映画でも観ていただくところからはじめて、いろいろレクチャーしなきゃいけなかったんですけど、まったくその必要はなかったですね。
小林:キャストの方々と監督の信頼関係が築き上げられていたんですね。
黒沢:そうですね。
小林:なかなか当時の口調の作品に触れる機会が少なかったので、新鮮でした。
黒沢:現代の人がやっているというのが新鮮だったかもしれません。何が昔のリアリティかというのはよく分かりませんけど、幸い映画が残っているので、少なくともフィクションの登場人物はこういう喋り方をして、こういう身のこなしをしていたんだなというのは、古い映画を見れば手に取るようによくわかる。なので、本当にぼくがどうこう言う必要もなく、俳優たちはみんなもう心得ているものでした。
「8K撮影の鮮明さ、陰影の美しさは残しつつフィクションとして成立させるのは大変でした」
小林:監督は『アカルイミライ』(2002年)で、早い段階からハイビジョン撮影をしていて、今作では初の8K撮影に挑戦されました。陰影がすごく特徴的な監督の作品で、8Kは綺麗に映りすぎるのではという心配はなかったですか?
黒沢:いやもう、それとの戦いでしたね。ものすごく綺麗で、さらにものすごく生々しい。本当にそこにあるかのように見えて、すごい技術なんですけど、下手すると俳優がお芝居してるようにしか見えないんですよね。俳優の芝居しているところが中継されているという感じで、まったくフィクションの世界に入っていけなくなるんですよ。それをどうするのかというのが、最初から課題でした。
黒沢:もちろん、どんどん画質を荒くして、極端に言うと白黒にしたりすれば何やらフィクションっぽくはなるんですが、そうしたら8Kでやる意味がないんですよね。8Kの鮮明さ、陰影の美しさはそのまま残して、でもフィクションとして成立させるのは大変でした。まあ、ぼくが頑張ったというよりも、NHKの技術スタッフがものすごくがんばってくれて、非常に素晴らしいものに仕上がったと自負しています。
小林:最後に、作品を楽しみにしている観客の皆様にメッセージをお願いいたします。
黒沢:『スパイの妻』という映画を撮りました。1940代前半の神戸という場所が舞台です。緊迫する社会のなかで一組の夫婦がどうやって愛を貫いていくか、あるいは時代の流れに飲み込まれていくか、そしてどうやってそこから抜け出していくか。そういったところを一種のサスペンスとして、メロドラマとして楽しんでいただければ嬉しいです。『スパイの妻』、よろしくお願いします。
『スパイの妻』は2020年10月16日(金)より新宿ピカデリーほか全国公開
取材:小林麗菜
新作映画情報番組「映画館へ行こう 10月号」
CS映画専門チャンネル ムービープラスにて2020年10月放送
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そして、『スパイの妻』で第77回ヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞(監督賞)を受賞した黒沢清監督のインタビューもお届けします! その他、今月公開の話題作を一挙解説!
出演者:小林麗菜