「人は映画を撮ることで映画監督になる」アニエス・ヴァルダを振り返る
2019年3月29日、アニエス・ヴァルダが亡くなった。まさか、と思った。2019年2月のベルリン国際映画祭に『アニエスによるヴァルダ』(2019年)を出品し、記者会見に娘のナタリーと出席していたヴァルダは、少し疲れて見えたがまだまだ元気で、これが最後と引退宣言をしても、とても本気とは思えなかった。カメラを構えてないヴァルダなんて、誰にも想像できるはずがない。
アニエス・ヴァルダは1928年5月30日ベルギーに生まれた。40年に家族でフランスに疎開、パリのソルボンヌ大学で文学と心理学を学び、ルイ・リュミエール国立学院で写真を学んで写真家となり、幼なじみの演出家ジャン・ヴィラールが創立したフランス国立民衆劇場(TNP)の専属カメラマンになった。彼女が撮った写真では当時のトップスター、ジェラール・フィリップのポートレイトが有名だ。
1955年、TNP所属の名優フィリップ・ノワレとシルヴィア・モンフォールを主演に、故郷に戻ってきた夫と彼を追ってきた妻の1日を描いた『ラ・ポワント・クールト』を撮って映画監督になった。フランソワ・トリュフォー 監督の『大人は判ってくれない』の4年前、ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』公開の5年前のことだった。
彼女の名言のひとつに、「人は映画を撮ることで映画監督になる」がある。撮影技術を学んだこともなく、映画ファンですらなかった彼女のユニークさの原点が、この言葉に表れている。昔、映画を学ぼうとしていた私が大いに触発された言葉だ。
ヴァルダが遺したセルフ・ポートレート的作品『アニエスによるヴァルダ』
『アニエスによるヴァルダ』は、監督デビュー作の『ラ・ポワント・クールト』から『顔たち、ところどころ』(2017年)まで、ヴァルダが自作を語るドキュメンタリー。彼女の解説を聞きながらフィルモグラフィーをたどると、まだまだ見落としていた物事、映画愛の深さ、友情の厚さが分かってくる。私が特に心に染みたのは、『冬の旅』(1985年)と『顔たち、ところどころ』を語る部分だ。
『冬の旅』は若きサンドリーヌ・ボネールがホームレスの娘を体当たりで演じた、彼女の代表作だが、“家もなく、法もなく”(原題の直訳)、自由に生きることを選択した娘の誰にも頼らない激しい生き方と、その悲劇的な結末は、公開当時も今も、きちんと理解されているとは言いがたい。その理解への糸口をヴァルダが遺してくれたのだと思った。
『顔たち、ところどころ』は、ビジュアル・アーティストのJRとの共作だが、ヴァルダのドキュメンタリーの結晶ともいうべき珠玉の名品。特に、亡くなった友人ギイ・ブルタンの巨大な写真を波打ち際の壁に苦労して張るものの、翌朝、波に洗われてボロボロになっているエピソードには深く胸を打たれた。形あるものは必ず滅すること、時間のはかなさを、このときほど意識しているヴァルダはいない。
特集上映「アニエス・ヴァルダをもっとよく知るための3本の映画」開催
今回の<アニエス・ヴァルダをもっとよく知るための3本の映画>特集では、遺作となった『アニエスによるヴァルダ』、監督デビュー作で日本初公開の『ラ・ポワント・クールト』の他に、『ダゲール街の人々』(1975年)というドキュメンタリーが上映される。
https://www.youtube.com/watch?v=lrJE9Jmpquw
“ダゲール街”というのはヴァルダと夫ジャック・ドゥミの自宅兼事務所があった通りで、写真を発明したルイ・ダゲールの名を冠している。原題は『ダゲレオタイプ(DAGUERREOTYPES)』といい、ダゲールが発明した銀盤写真(ダゲレオタイプ)とダゲール街にいる奴(タイプ)という2つの意味を掛けたもの(ヴァルダの映画は常にこういう言葉遊びが満載されていて、翻訳者泣かせである)。
『ダゲール街の人々』は、のちの『落ち穂拾い』(2000年)に連なる、市井の人々への興味と愛にあふれた作品だ。ダゲール街はパリ留学時代に私もよく買い物に出かけた商店街なので、格別親近感がある。
映画人生を歩き始めた頃のヴァルダは、近寄りがたいほどキュートな美人だったが、人生をたどるうちに、次第に慈悲深い聖母のような、大きな存在になっていった。私にも幾つか接点があるが、いつ会っても誰に対しても平等に親しく接してくれる温かい人だった。
アニエス・ヴァルダがもうこの世にいない、もう新作が見られないのは悲しいが、今は彼女が遺してくれた映画を、本のページを繰るように、1本1本、見直してみたいと思っている。
文:齋藤敦子
『アニエスによるヴァルダ』『ラ・ポワント・クールト』『ダゲール街の人々』は2019年12月21日(土)より特集上映「アニエス・ヴァルダをもっと知るための3本の映画」にてシアター・イメージフォーラムほか全順次公開