マリア・カラスの出会いと開眼
私はマリア・カラスが生きている時代に間に合った世代だが、カラスの生の歌声に触れることはなかった。ジュゼッペ・ディ・ステファノとのツアーで日本へ来たときもNHKの中継では見たが、当時10万円と言われたチケットを買うなんて考えられないことだった。ただ黒柳徹子さんが興奮気味にカラスがどんなに凄い人かを熱狂的に話していたことはよく覚えている。黒柳さんはのちに舞台<マスタークラス>でカラスを演じることになる。
というわけで、私が知ったときのカラスはすでにスキャンダルとゴシップにまみれた神話的なセレブになっていた。その美貌とスリムな体型で、オペラ歌手は太っていなければ声量が出ないという通説を覆した人、痩せるために寄生虫ダイエットをした人、ギリシャの海運王オナシスをジャクリーン・ケネディに奪われた人、カラスにまつわる、嘘か本当かわからないそんなゴシップなら知っていたし、彼女が出演したパゾリーニの『王女メディア』(1969)も封切りで見ていたが、歌わないカラスはカラスではなかった。
そんな私にカラスの真髄を教えてくれたのは――それも圧倒的な迫力で――ジョナサン・デミの『フィラデルフィア』(1993)だった(私はデミの映画、特にドキュメンタリーから、いろいろなことを教わったが、これもその1つだ)。エイズで死を前にしたトム・ハンクスが、自室でジョルダーノのオペラ<アンドレア・シェニエ>のアリア“母が死に”を聞く場面だ。このとき初めて、私はオペラ歌手としての本当のカラスを知った。フランス革命の嵐の中で、母親を殺され、家を焼かれたマッダレーナが、無実の罪で捕らえられたアンドレア・シェニエを救ってくれと訴えるアリアである。母の死体を前にしたときの絶望から、愛に希望を見い出したのだと劇的に歌い上げる。愛そのもの、希望そのもののカラスの歌声に包まれて、トム・ハンクスは涙を流す。映画を見終わっても歌声が耳から離れず、私はその足でカラスのCDを買いに行ったのだった。
彼女が自らの言葉で人生を語る、“自伝”映画を作り上げた
トム・ヴォルフの『私は、マリア・カラス』は、本当のカラスを知るための待望の作品だ。ドキュメンタリーだが、余計なコメントは一切ない。ヴォルフは3年の歳月を費やして、カラスの友人、関係者を尋ね、彼女が残した手紙、発言、映像を丹念に探し出し、彼女が自らの言葉で自分の人生を語るのだ。そこに、デビューの時から始まる彼女をめぐるスキャンダル、中傷、やっかみといった無駄なものがそぎ落とされた、本当のカラスの姿が浮かび上がってくる。誰よりも才能に恵まれ、誰よりもプライドが高かった世界一のオペラ歌手と、その才能ゆえに苦しむ一人の女性の素顔が。
この作品のいいところは、過去のニュース映像が違和感なくカラー化されていて、古びてみえないこと。そして、カラスの歌声が最新の技術で美しくパワフルに蘇ったことだ。アーカイヴ映像の数々からはヴィスコンティ、デ・シーカ、アンナ・マニャーニ、パゾリーニ、ブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーヴといった映画を語るうえで欠かせない人々。ジャクリーン・ケネディ、グレース・ケリー、エドワード8世とシンプソン夫人、エリザベス女王、ウィンストン・チャーチルといったセレブリティの顔が垣間見え、ひとつの歴史が浮かび上がってくる。
マリア・カラスのファンにはもちろん、カラスを知らない人、オペラを知らない人にも楽しめる映画だ。私にとっては、まずはゴシップから知り、歌声で開眼したマリア・カラスという人を1から知り直す機会になった。そして、親友・恋人と思っていたオナシスに裏切られたカラスが、最後は彼女の元に帰ってきたオナシスと仲直りし、彼の死を看取ったことを知って、なんだか嬉しかった。まるで<アンドレア・シェニエ>のマッダレーナのように、苦悩のさなかに愛が現れたような気がした。
マリア・カラスを知らない人にこそ見ていただきたい。そして映画のクライマックスに流れるカラスの“母が死に”の絶唱をぜひ聞いていただきたい。
文:齋藤敦子
『私は、マリア・カラス』は12/21(金)よりTOHO シネマズ シャンテ、Bunkamura ル・シネマほか全国順次公開中