1989年からNHK衛星第2テレビジョンで放送された映画版番組「衛星映画劇場」に“支配人”として出演されていた元NHKアナウンサーの渡辺俊雄さんと山本晋也監督。長らく映画・放送業界に携わってきたお二人ならではの“ツボ”や視点を通して、数々の映画の魅力を紹介してきた番組、それが「衛星映画劇場」だ。
実は、渡辺・山本の両氏は放送作品の編成にも携わっていたとのこと。作品選定や編成などのお話は前編を参考にしていただき、今回はアカデミー賞の隠れた法則や名作の見方などを紹介したい。
それって本当!? 名前に“P”が付く俳優はなかなかアカデミー賞が獲れない
渡辺:アカデミー賞にもいろんな法則があって、ひとつが主演男優賞は名前にアルファベットの“P”がつく人は獲りにくい。
ポール・ニューマンは受賞までに6回ノミネートされましたが、授賞式に呼ばれてはダメで呼ばれてはダメで……、あれはイヤでしょうね。そして7回目のノミネートで会場に行かなかったら、そこで(名前を)呼ばれてしまったんです。家でテレビを見ていて「え? 俺が呼ばれてる」って思ったらしい。
渡辺:アル・パチーノ、この人も7回目でやっと受賞できたんですが、一番悲劇なのはピーター・オトゥールですね。
渡辺:どう考えたって『アラビアのロレンス』(1962年)で獲ってなきゃおかしいでしょ。ところが彼は、8回主演男優賞にノミネートされて1回も獲ってないんですね。なぜ『アラビアのロレンス』で獲れなかったのかというと、同じ1962年に5回目のノミネートでやっと獲った人がいるわけです。当時アメリカ大統領にもなろうかというグレゴリー・ペックという人がいて、この人も“P”がつくでしょ。グレゴリー・ペックも5回目のノミネート『アラバマ物語』(1962年)でやっと主演男優賞を獲るわけなんですよ。
アカデミー賞は、<ハリウッド>っていう、せいぜい5,000人ぐらいの小さな村の投票なわけです。そうすると凄く苦労していて、人格も優れているグレゴリー・ペックが5回目にノミネートされたとき、『アラビアのロレンス』は立派な作品だけど、ピーター・オトゥールはイギリスの新人で先が長いからって、当然グレゴリー・ペックに票が入ってね。『アラビアのロレンス』で獲れなかったピーター・オトゥールは8回ノミネートされても1回も獲れていないから、しょうがなくアカデミー協会は名誉賞を授与するんです。その時はメリル・ストリープが「人間にはなかなか恵まれない時がある。この人はその最たるものです」ってオトゥールを紹介するんですね。
メリル・ストリープもよく考えたら“P”がつくでしょ。あの人も主演・助演女優賞合わせて21回ノミネートされてるんだけど、3回しか獲ってないんです。7打数1安打、一軍選手にはなれないですよ(笑)。
意外な事実!「キネ旬ベスト・テン」は11位にランクインした作品が面白い
渡辺:映画雑誌のキネマ旬報による「キネマ旬報ベスト・テン」が、ずーっと発表されてますよね(戦時中は中止)。ベスト・テンだから10位までだけど、私とカントクで発見したのが、実はキネマ旬報は11位がおもしろい。
山本:意外と知られてないけど、11位になった作品というのが凄いんですよ。
渡辺:10位までは新聞で発表されるんですが、11位以下は雑誌を買わなきゃ分からない。例えばどんなのがあるかというと、『巴里のアメリカ人 』(1951年)、『赤い風車』(1952年)、(アルフレッド・)ヒッチコックの『裏窓』(1954年)、ビリー・ワイルダーの『情婦』(1957年)、『北北西に進路を取れ』(1959年)、(ルキノ・)ヴィスコンティの『若者のすべて』(1960年)、『山猫』(1963年)、『水の中のナイフ』(1962年)、『ミクロの決死圏』(1966年)、『招かれざる客』(1967年)、『ダーティハリー』(1971年)、『ゲッタウェイ』(1972年)。
山本:こういうのが11位なんだね。
渡辺:『がんばれ! ベアーズ』(1976年)、『カプリコン・1』(1977年)、『愛と哀しみのボレロ』(1981年)、『48時間』(1982年)。魅力的な作品ばかりなんですよね。『タワーリング・インフェルノ』(1974年)も11位かな。
山本:11位を見るだけでも番組ができちゃうね。
渡辺:「キネマ旬報の11位だけを観る回」とかね。そういうのもけっこう面白いですよね。カントクも私も、もちろん洋画も大好きでね。一番好きなのは、やっぱり大西部劇。
山本:そうですね。
渡辺:カントクも僕も『シェーン』(1953年)が好きすぎて、これを番組で語った時は話が長くなりすぎて、スタッフが編集に苦労した、というのがありましたね(笑)。
監督だから読み解ける! 銃規制がテーマの講義でなぜ『シェーン』を選んだか
山本:昔、ある大学の講義に講師として呼ばれて。教授に「教材はなんですか?」と聞かれたんですよ。銃規制の問題を話したかったんで、僕が選んだ作品は、銃を持っている、殺し屋、ガンマンの話の『シェーン』。それからマイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002年)、この二本が教材ですと答えた。まあ、『ボウリング・フォー・コロンバイン』は観てらっしゃる方いるんですけれども、『シェーン』は観てない方が多かった。
渡辺:『シェーン』を知ってる人も「『シェーン』と銃規制?」って思うじゃないですか。カントクを凄いなと思うのは、そのあたりの作り手じゃないと分からないところにあるんですよ。
山本:『シェーン』の魅力は子どもの目線、つまり、流れ者のシェーンを慕う牧場の息子・ジョーイの目線からシェーンを描いているところだと思うんですね。
渡辺:舞台はワイオミングで、後ろに雪山があるようなところですね。
山本:西部劇のくせに、砂ぼこりが上がらないんですよ。水も豊かな草原という場所。
渡辺:(シェーンは)いわゆる流れ者ですよね、それで多分、過酷な暮らしをしてきて修羅場をくぐってきた。
山本:監督のジョージ・スティーヴンスという方が(占領下の日本で進駐軍向けの舞台の)演出をしていた時に、日本の子どもたちがチャンバラごっこで遊んでいるのを見たんですって。僕も小学生の時、終戦後のマッカーサー統治下でも下町ではチャンバラごっこやってたんですよ。それはアメリカでも同じだったらしくてね。子どもたちが銃で撃ったり、撃たれたりする遊びをやってたんですって。日本もアメリカも、戦争が終わった直後に子どもがこういったことをやってるのは何故だろう? と考えた。
そこでアラン・ラッドを主演に『シェーン』を作ったのは、銃規制に対することを日本のチャンバラごっこと同じように考えて、なんだね。『シェーン』では、そういうところで銃規制の問題を(ほのめかしている)。だから僕は、教材で『ボウリング・フォー・コロンバイン』と比較して観てみてどう思うか? と(質問した)。まだ、答えは出てないですね。映画でも、ジョーイ少年がシェーンに「ガンマンなら一度撃ってみてくれない?」って言って、ママのいないところで二人だけで銃を撃つんですよ。監督のジョージ・スティーヴンスは銃声を「普通よりも3倍ぐらいボリュームあげて撮れ」って指示していて、確かに映画館で観ていて“ビクッ”てなるくらい銃声が凄いんですよね。わざとそういう表現しているんだね。
渡辺:1本の映画でも、いくらでも語れますね。それにまた、『シェーン』は衣装も素晴らしいですよね。イーディス・ヘッドという人で、同じ1953年にオードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』でも衣装をやっているんですよ。この人は、とにかく20回ぐらいアカデミー衣裳デザイン賞にノミネートされた伝説の人で、だから一回、イーデス・ヘッドの衣装だけを観る企画をやってみたかったですね。女性はすごい興味があるんじゃないかな。
イーディス・ヘッドがスゴイのは、もともとはハリウッドの近くの小学校か何かの先生だったんだけど、近くにあった撮影所で衣装係を募集していたのに応募して。もともと本当に頭のいい人で、オードリー・ヘプバーンやエリザベス・テイラーそれぞれの体形に合わせた衣装を用意する。この人がアカデミー 衣装デザイン賞を獲った作品だけでもすごいですね(『ローマの休日』、『麗しのサブリナ』、『スティング』など)。
山本:確か、『刑事コロンボ』(1968年~)のテレビドラマに出てたかもしれない。
渡辺:そう、『刑事コロンボ』に本人役で出演して、その自分が獲った8個のオスカー像をずらっと並べて。ある種、自慢もしているんです(笑)。
知られざる事実! 内田裕也に滝田洋二郎を紹介したのは山本カントクだった
渡辺:2019年も随分、名優が亡くなりました。内田裕也さんはカントクのお友達ですよね。
山本:ええ。
渡辺:カントクのお弟子さんの滝田洋二郎さんが『おくりびと』(2008年)でアカデミー賞外国語映画賞を獲りましたよね。それで、紫綬褒章受章のパーティーに行ったら、主賓が内田裕也と山本晋也って書いてあって、こんなに濃いパーティーはないなと(笑)。
山本:『コミック雑誌なんかいらない!』(1986年:ワイドショーの人気レポーターを主人公に、実際に起きた有名人のスキャンダルや事件を挟み込んだ滝田洋二郎監督作)の時も最初、裕也の兄ちゃんから僕のところに「ちょっと(ロス疑惑の)三浦和義のことやりたいんだよね」って電話がかかってきてさ。その時はちょうど「トゥナイト」(1980年~1994年まで放送された深夜番組)で“疑惑の銃弾”ってことで、ずっと三浦和義を攻め続けていたわけですよ。だからさ、「兄ちゃん、俺がやるのはやばいよ。俺の助監督で滝田洋二郎っていうのがいるから、こいつにやらしたらどう?」って紹介して。そしたら「しょうがねえなあ」って、あのロッケンロールはね(笑)
渡辺:また、2020年の東京オリンピック開催まで1年を切りましたけど、1964年の開催時は市川崑監督の『東京オリンピック』(1965年)という名作があって。あれにもカントクは関わっていたんですよね。
山本:撮影助手でね。『東京オリンピック』、もう地獄(笑)。
渡辺:この映画はドキュメンタリーかどうかって論議が起こりましたね。
山本:大論議ですよ。当時の大臣が「これは記録映画じゃない、作り直せ」って言ってね。
渡辺:そこに当時の大女優、高峰秀子が立ちはだかった。
山本:『二十四の瞳』(1954年)で先生の役をやった高峰秀子が大臣のところに2回ぐらい行ってね。「この名作をなぜわからない!」と言い切った。すごいよ。
渡辺:今となっては、この作品はオリンピック映画の名作中の名作と言われてますね。
山本:カンヌ映画祭で賞まで獲ってますからね。(1965年:国際批評家賞受賞)
渡辺:その後、いろんなオリンピックの映画がありますけど、これは観客動員数がとんでもなかったんですよね。その記録を破ったのが『千と千尋の神隠し』(2001年)になるわけだけど。
カントクは2020年東京オリンピックの記録映画を作る川瀬直美さんと対談をされて、「記録にこだわるな。好きなように撮れ」とアドバイスされていますね。
山本:そう、そう言ったの。それから「上にいる組織委員会の連中が、お前さんの作品ができた時に全部敵になるから」って言ってやったの(笑)。河瀬、それだけは真面目な顔して聞いてたね。前回そういう目にあってるから、それだけは伝えておかないとね。
渡辺:その時は山本監督が矢面に立っていただいて(笑)。今や市川崑さんの1965年版の映画に携わった人もいなくなっちゃいましたね。