【映画宣伝/プロデューサー原正人の伝説 第3回】
日本ヘラルド映画の伝説の宣伝部長として数多の作品を世に送り出すと共に、「宣伝」のみならず、映画プロデューサーとして日本を代表する巨匠たちの作品を世の中に送り出してきた映画界のレジェンド・原正人(はらまさと)。全12回の本連載では、その原への取材をベースに、洋画配給・邦画製作の最前線で60年活躍し続けた原の仕事の数々を、原自身の言葉を紹介しつつ、様々な作品のエピソードと共に紹介していく。
原への取材および原稿としてまとめるのは、日本ヘラルド映画における原の後輩にあたる谷川建司。ヘラルドは1956年から半世紀の間存在した(後に角川映画が吸収合併)洋画配給会社で、様々な作品を世に送り出してきた。連載第3回目の今回は、ソ連・モスフィルムが製作した超大作『戦争と平和』(1965~67年)を、ハリウッドの話題作並みの扱いで巨大な劇場チェーンでロードショー公開し、来日大キャンペーンを実施したエピソードを紹介したい。
60年代の日本でソ連の大作映画『戦争と平和』を大ヒットさせたヘラルド
2018年11月、ロシア映画『アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語』(2017年)が全国のアート系劇場でロードショー公開された。これは2018年が政府が定めた「日本におけるロシア年」だったから実現した快挙なのであって、今日の日本の興行マーケットでは、シネコンの大スクリーンで上映されるのはほとんどハリウッドの娯楽大作ばかりだというのはご存知の通り。ヨーロッパ映画の佳作などはアート系劇場やシネコンのキャパの小さなスクリーンでひっそりと上映されるのが関の山であり、ましてや、なじみのある俳優など一人も出ていないロシア映画を大スクリーンで観るチャンスなどは皆無に等しいと言ってよい。
ところが、今を遡ること53年前の1966年、原正人が宣伝部長として采配を振るっていた日本ヘラルド映画では、ソ連・モスフィルム製作の70ミリ超大作『戦争と平和〈第一部〉』を丸の内ピカデリーという一流劇場でロードショー公開するや、この年の興行成績洋画第3位の大ヒットを記録、翌年には『戦争と平和〈完結編〉』も公開され、大きな文化的現象を巻き起こした。
その頃の日本では、10年前に公開されたオードリー・ヘプバーン主演のハリウッド映画版『戦争と平和』(1956年)の印象が強く残っており、このソ連映画の『戦争と平和』は、俳優たちも無名、上映時間も長く、内容も重そうで、営業的には難しいというのが大方の見方だった。だが、欠点を長所に変えてしまう逆転の発想で、戦争のスケール感とリュドミラ・サベリーエワ演じるヒロインの美しさを中心に、「これぞトルストイの国が作った本物の歴史映画」という点を強調して成功に繋げた。
宣伝面では、監督兼ピエール役のセルゲイ・ボンダルチュクを始めとして、アンドレイ役のヴェチェスラフ・チーホノフ、そしてナターシャ役のサベリーエワら一行8名をキャンペーンのために来日させたのだが、彼らは毎日、様々なメディアの取材に応えたり、話題作りのためにNHKの人気朝ドラ『おはなはん』撮影中の松竹撮影所を訪問したりと、精力的に映画の宣伝に協力した。トルストイの原作を出版している河出書房とのタイアップも功を奏し、『戦争と平和〈第一部〉』は「鑑賞の手引き」という小冊子を前売り券に付けて20万人の団体動員を確保して、2.7億円(当時)の興行成績を上げた。『戦争と平和〈完結編〉』のほうは松竹セントラル、渋谷パンテオン、新宿ミラノ座のいわゆる“セパミ”巨大チェーンで公開され、始めの1ヶ月のみで1.9億(当時)もの収益を上げている。
「ナイロンのストッキングもなかった当時のソ連から来た一行は、高度成長期を迎えていた日本の繁栄に驚いていたようでした。主演女優にしてはオールドファッションで質素な服装だったサベリーエワを見て、古川社長は「銀座で彼女のために服を買ってきてあげなさい」と女子社員に命じていたのを憶えています」
ヘラルドを立ち上げた古川社長とソ連映画との知られざる関係
ソ連映画がこのようにハリウッドの話題作並みに拡大公開され、そして大ヒットした背景には、もちろんアメリカ文化に対してのオルタナティヴ文化の受容に関してのキャパシティと成熟度が1960年代半ばの日本にはまだ存在していたからだ、と言うことができる。だが、ヘラルドという会社がそれを率先して行った事情というのは、実はヘラルドという会社の成り立ちと関係がある。
原正人はヘラルドに入社する以前、独立映画という左翼系の邦画製作会社で製作宣伝の仕事をしていたのだが、その独立映画というのがもともとはソ連映画の配給会社だった。
「北星映画というソ連映画の配給会社があったんだけど、すぐ潰れちゃったんです。その北星映画が潰れてできたのが、独立映画です。あの頃は会社が負債を背負うと、すぐに会社を潰して、別の名前にするんです。それが、独立映画です。独立映画が潰れて、潰れた時に大東映画になって、大東映画から分離していったのが大洋映画で、これがヘラルドとくっついたんです」
ヘラルドという会社を立ち上げた古川勝巳社長は、当時、洋画の配給会社に存在した作品の“割り当て本数制”(各映画会社ごとに輸入できる作品の本数制限があった)という制限から、いくつかの小さな配給会社を吸収合併することで、それらの会社の割り当て本数を手中に収めて事業を拡大していったのだが、当然ながら吸収した大洋映画は
「もともと北星映画が持っていたソ連映画で『女狙撃兵マリュートカ』(1956年)や『オセロ』(1955年)とかの作品があるんだけど、その配給権が独立映画から大東映画に引き継がれ、大洋映画のものになった。僕は独立映画にいた時、『マリュートカ』『オセロ』の宣伝担当をしていたんですけど、ヘラルドが大洋映画を買収したことで、これらの映画の配給権もヘラルドのものになったんです」
という。
原自身も結局ヘラルドに拾ってもらう形となり、後の快進撃に繋がっていくわけだが、ヘラルドという会社自体が大きくなる過程でソ連映画の配給権を引き取っていたのが、そもそもヘラルドとソ連映画界とのパイプを産んだことになる。
ソ連映画配給を経て黒澤明『デルス・ウザーラ』を成功に導いたヘラルド陣営
ヘラルド映画がソ連映画を配給したのは1962年の『戦場』と短編映画『ネバ河』からで、『戦争と平和』の大キャンペーン成功後は同じく70ミリ大作の『チャイコフスキー』(1970年)、ソ連=東ドイツ合作の70ミリ大作『情熱の生涯 ゴヤ』(1971年)、リュドミラ・サベリーエワ主演の『帰郷』(1972年)、ソ連=イギリス合作の『アンナ・パブロワ』(1984年)といった作品を、『戦争と平和』同様の来日キャンペーンを含む大規模な形で次々と配給し、いずれも成功している。また『戦争と平和』についても、〈第一部〉と〈完結編〉のあと、1972年に『戦争と平和〈総集編〉』を丸の内ピカデリーで凱旋興行し、一粒で三度おいしい商売をしている。
ところで、日本映画界が生んだ最大の”世界の巨匠”である黒澤明監督は、ドフトエフスキー原作の『白痴』(1951年)やゴーリキー原作の『どん底』(1957年)を映画化しているほどのロシア文学好きだが、その黒澤監督はハリウッド映画『トラ・トラ・トラ!』(1970年)の降板騒ぎやその後の自殺未遂で映画が撮れなかった時期があった。その頃にソ連のモスフィルムとの間を取り持って黒澤明監督作品『デルス・ウザーラ』(1975年)の成功(アカデミー賞外国語映画賞受賞)による大復活の道を開いたのが、ヘラルドの古川勝巳社長であり、同作品を配給、宣伝の陣頭指揮を執ったのが原ということになる。それが後年の黒澤明監督作品『乱』へと繋がっていくのだが、それはまた回を改めて紹介しよう。
文:谷川建司
第3回:終
日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン
『エマニエル夫人』『地獄の黙示録』『小さな恋のメロディ』など、日本ヘラルド映画が送り出した錚々たる作品の宣伝手法、当時のポスタービジュアルなどを余すところなく紹介する完全保存版の1冊。
著・谷川建司 監修・原正人/パイ インターナショナル刊