【惹句師・関根忠郎の映画一刀両断】
若干24歳、阿部はりか監督初の長編『暁闇』は、10代の体験を忘れたくないという衝動によって生まれた作品。令和という新時代に公開される本作に、82歳の昭和世代、関根忠郎氏は「未知の言語」を発見したと語る。
か細い糸トンボのように頼りなげに飛ぶ少年と少女たち
「暁闇(ぎょうあん)」という言葉の存在を初めて知った。言語に関わる人間の端くれとして、不明を恥じたのは勿論だが、暁闇(=あかつきのやみ)とは、思えば何という瞬時の、何という儚さ、何というデリケートな感触、何という不確かで幻想的な躊躇いの現象を顕す二文字であることか。
常に2、3の仕事が重なる日常の慌ただしさのなか、いっさいの下知識もなく、映画のタイトルさえも、数日前に担当者からの電話で、ただ「ぎょうあん」を「りょうあん」と聴き違えたまま、駆け込むように試写室に身を投じた。受付で手にした資料に目を落として、初めて『暁闇』というタイトルに接し、「これ何だろう……」といった心許ない感受をしたまま試写室の椅子に着いた。
映画は、上映時間わずか57分の、中篇というべきか、あるいは小篇ともいうべき作品だった。見終わって一日しか経ていないにも拘わらず、この映像がカラーであったのか、モノクロであったかのかさえ、記憶が定かでない。不思議なことに、わたしにはカラーとモノクロ、どちらとも限定し難い映像といった印象が残ったのは如何なる理由か。
登場する少年少女たちの心許なさ、戸惑いが終始ついて回る映像。時間が流れているのか、止まっているのか。現実なのか、幻想なのか、それすらわたしには定かでない。わたしにとって彼らの世界は、それほどに具象的ではなく、ひたすら具体的な抽象性を帯びていた。
中学生なのか、高校生なのか。わたしには判別不能だが、男女3人の少年少女が、学校を、街を、それぞれの家庭を、あたかも半透明な、か細い糸トンボのように頼りなげに飛んでいる。わたしには少なくともそのように映る。少年コウ(青木柚)は、終始無気力無関心でいながら父親を冷視し、恋人のトモコ(若杉凩)とは妙に距離感がある。ユウカ(中尾有枷)は下校後、街をフラついて見知らぬ男の子たちとセックスしたりしている。ユウカの同級生サキ(越後はる香)は、両親の不和の間で行き場のない孤独を抱えているようだ。
コウ、ユウカ、サキの3人は、コウが匿名でネットに公開している音楽を通じて何となく仲良しとなっていて、下校後は街の廃ビルの屋上に屯しながら時を過ごしている。これといった居場所を持たない3人は、街の誰からも無視されている廃艦のような給水塔があるビルの屋上で、時に戯れ、時に話に興じ、時に寄る辺ない淋しさを交わし合う。不思議と彼らは自分自身については、明らかな理由もなく語ろうとしない。ただそこで家庭とも学校とも無関係な癒しの場を見出しているらしい。無為とも思われる時間のなかでの、得も言われない至福のひととき ―。
不可解な“世界”を今一度見つめ、感じ、考える試み
遠い遠い大昔、敗戦直後の東京廃墟で、悪ガキたちと焼けビル探検の日々を過ごした記憶が、映画と無関係にいきなり甦った。
やがて否応もなく3人の少年少女の背後にある、暗雲のように忍び寄る現実社会の混濁混沌とした気配に気づかされる。半透明な糸トンボのようにか細い、彼らの明日は、近未来は……? 現に今、彼らの親たちが、多くの大人たちが、その不可視な危うい現実の薄暗がり、あるいは闇と言ってもいい不透明なクラウドに覆われて、明日を、未来を探しあぐねて呻吟する今、これに続く子どもたちの世界は、いったいどのように開かれて行くのか。真の水先案内人は、どこにも見当たらない。
このような取り止めもない不安を抱えた少年少女を描きながら、新進の阿部はりか監督(脚本・編集も担当)は、ここで何を見つめ、何を描こうとしているのか。不安定、不確定に日々を浮遊するコウ、ユウカ、サキたち3人は、現在の人であると同時に、監督にとっては、あるいは何年か前の知人・友人たちなのかもしれない。
監督は、演出をしながらどこかこの3人を通して、若い日々を共有した記憶を手繰り寄せ、映像に焼き留めようとしているかのように見える。これと決めてフィクショナルに“青春”を脚本化して、実際にカメラの前のコウ、ユウカ、サキを動かして描出する作劇の形跡よりも、自身とその友人たちとの関りの記憶を通して、自分を取り巻く不可解な“世界”を今一度見つめ、感じ、考えようと試みたのではないか。そのための記憶の手探り作業による結果が、映画『暁闇』ではないのだろうか。旧来の起承転結の作劇法から自由な、若き監督の物語術の在りようが痛烈に伝わってくる。
阿部はりか監督によって得た「未知の言語」、その発見は大いなる恵み
それにしても彼ら少年少女たちは取り留めもなく、不甲斐なく、か弱い存在であることか。現世界と親世代に絶望し、一見無目的に動き回らずにいられない彼らの姿形は、10代の頃の阿部はりか監督の視界に映る心象姿景そのものなのかもしれない。若い監督の精一杯のセンシブルなこの“撮り様”を、わたしのような現在最古の昭和生き残り旧世代映画人は、そう捉える以外に他はない。
さらに言えば、少年少女たちのテンションの低いセリフ(というより呟きにも似た内心の声なき声)の多くを聴き取るには、目いっぱい神経を集中させなくてはならなかった。わたしの難聴(少年時の水球競技による格闘で右耳を損傷)という個人的事由により彼らの声の半分は聴き取れず、ここでも日常生活で使っている読唇術(あるいは読心術)を、時折駆使しての映画鑑賞を余儀なくされたのだが、却ってそれが作品に対して妙に親近性を覚えたことも確かだ。私が持ち合わせている“負”が、たまたま功を奏し、共振したのであろうか。
この作品を見ながら、遠い昔に、フランソワ・トリュフォー監督の2作『あこがれ』(1958年)と『大人は判ってくれない』(1959年)を唐突に思い出したことを付記しておこう。
しかしながら、この作品の試写を機に、『暁闇』という二文字を知り得たわたしは、自身のささやかな世界観、自然観、人間観に一幅の広がりを得たような高揚を覚えた。24歳の新進監督によって得られた「未知の言語」の発見は、80歳をすでに超えて久しい映画ライターにとって、どれほどか大きな恵みとなったかは余人には窺い知ることはできないだろう。因みに或る国語辞典によれば、“暁闇”とは、「月の落ちたあと、日の出る前の、やみ」とある。そのシンボリックの極みは、この作品の場合、何を指し示すのか、あるいは何を指し示そうとしているのか。本当のところ、わたしにはまだ分かっていない。君は大宇宙の詩的一瞬現象『暁闇』を見たか……。いや、まだ見ていない……。
文:関根忠郎
『暁闇』は2019年7月20日(土)より渋谷ユーロスペースほか全国順次ロードショー